NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会 横浜ロシア語センター

当センターについて

横浜ロシア語センターの歴史

 1961年4月、横浜―ナホトカ定期航路が開設された。
 同年7月現在の教室の第1期が日ソ協会神奈川県連結成準備委員会により開講された。
 1960年代、当時の講師は日ソ学院から派遣していただいた三宅、西尾、鹿島、久保田、若杉、柳、島崎、近田、高山、大木などの諸先生。 生徒数:横浜80名、川崎31名、小田原20名。
 最初の事務所は野毛町1-53ポーラ化粧品2F。横浜経営研究所の机1脚を借りて開始された。初代事務局長は元高木女子商業高等学校教諭の柴田順吉であった。
 協会活動の裏方、事務局は草創期には陣の内、落合、県連時代は柴田、竹田、古牧、大滝、田中、斉藤、木田、植木などが支えた。きわめて困難な活動であったし、殆どが無給、或いはそれに近いボランティアであった。

 自前の教室が無かったので、全港湾、勤労会館、新興会館、岡村製作所、南区公会堂などを転々。
 1960年開講から、1975年4月27日(関内、不老町の楊ビルに400万円のカンパ活動をし、敷金、礼金、教室設備を調達し鉄筋の事務所を確保する)まで、実に16年もの間、ロシア語教室は「遊牧民の生活」を続けた。
 それまでの間、事務所も野毛、宮川町、桜木町、東神奈川と転々と移った。

 瀬田良一氏(湘南病院《吉田茂のかかりつけの病院》理事長)談(1960)
 「日ソ協会も将来は鉄筋コンクリートの事務所ぐらい持たねば・・・」

 機関紙(神奈川版第1号)1961/11/7付けの記事
 「10月26日夜、モジャイスキー号船員と(本年)最後のロシア語教室を開催、ついで11月7日には第10月社会主義革命祝賀会を初級中級合同で開催した。
 祝賀挨拶、懇談の後金子さんの8ミリを観賞して散会した。なお初級では更に一度生徒の懇親会を持つ予定である。」

 1962年5月27日、神奈川県連結成  会長:黒田辰夫(早大教授)、理事長:勝田昌二(国大教授)、事務局長:柴田順吉
 役員構成はロシア文学、ロシア語、経済交流など草の根の相互理解、親善に重点を置いた。

 しかし、1960年代の後半すなわち1967-69年頃には中ソ対立や、両国による日本の平和、民主運動に対する分裂策動などの影響を受けロシア語の学習者は激減、教室の生徒数は20人台に低迷した。
 1968年度活動方針
 「ロシア語教室は23~26期、開講し延べ115人が受講しました。ロシア語委員会を拡充し、生徒に対して授業中の援助や、欠席者に対する補講を行い、脱落者を少なくする努力をしました。
 生徒募集方法も市電広告、ポスター貼り委託を試みました。教室のカーテンの取り付け、天井の張替えなどを行いました。
 しかし一時期、生徒が激減し教室を継続するか、中断するか検討せざるを得なくなりました。
 論議の結果、7年間休むことなく開講してきた日常活動の唯一のものであるとし、全会員が力をあわせて取り組めば継続可能と判断し続けてきました。・・・」

 こうした努力の結果、この教室からは延べ二千人以上のロシア語修得者、ロシアなどへの留学生を世に送り出し、今でも各方面でご活躍中の学者、研究者、文化人、教育者、技術者、芸能人、スポーツマン、経済人などが数多くおられる。

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